Exhibition

2024
2024.06.16
LINE【書】=線と空間=

【会期】2024年8月8日(木)→8月13日(火)
【時間】11:00→20:00(最終日は17:00終了)

【作品解説会】8月10日(土)、11日(日)14:00~15:00《無料》 解説・岡本光平

【主催】CACA現代アート書作家協会
【後援・協賛】(株)鳥久

渋谷ヒカリエ 8/CUBE 1,2,3

〒150-8510 東京都渋谷区渋谷 2-21-18階 MAP

 

*JR線・京王井の頭線「渋谷駅」と2階連絡通路で直結
*東京メトロ銀座線「渋谷駅」と1階で直結
*東急東横線・田園都市線・東京メトロ半蔵門線・副都心線「渋谷駅」B5出口と直結

出品者

出岡晃代、稲冨能恵、芋切丸、岩科蓮花、遠藤雪飛、笠岡放虎、川﨑恵子、北本淳子、久保田光子、栗山一滴、越川泉、越川白雲、小林晃久、小林桃李、小林白濤、順、扇丘、高橋古銕、田中不軌、出口胡蝶、土井石心、直、長田風虹、中野明子、野風衣、秦野草径、林抱宇、原田榮雅、伴一想、平田淳子、藤原活子、星野暁子、松尾泉庭、安田竜介、山田咆月、山本美紀子、靁鼓、黎光、和香

岡本光平

書の線と空間

〜過去から現在へと貫くもの〜 岡本光平

書を構成するのは線と字形、そして余白と空間性が最大の特徴です。
 なかでも東洋が誇る伝統の書画は線が命です。西洋絵画は長らく面をもって描いてきましたが、ゴッホたちがたまたま日本の線で描かれている浮世絵に衝撃を受け、線に目覚めたことはよく知られています。以後、マティスのように東洋的なワンストロークの一回性の線に目覚めた作家たちが輩出し、20世紀半ば以降の現代美術のなかにも線を主体とした表現が多く見られるようになりました。逆輸入のようなことも起きています。

 東洋の書は極め尽くした線そのものの表現です。自然をモデルとし、時代の精神性と人間との関わりのなかで育まれてきた多様で長い歴史があります。
 自然は広大な海や山、森を大いなる地球上の余白として世界をかたちづくっています。ひとつとして同じ木の姿はなく、木々の枝は1本の線であり、石はひとつの点として同じかたちはなく、流れる雲の千変万化する姿を文字を借りて投影してきたのが書の世界でもありました。
 有為転変、生成流転する自然を畏敬し、己れの生き方を見つめること、それは森羅万象のエネルギーを紙上の小宇宙として顕現させ、「無」や「空」の精神と一体化することを理想としていたことが背後にありました。単なる書技ではなかったのです。

 線と点で構成する漢字の背景には、シャーマニズムとしての神話が宿ります。古代から現代へと受け継がれてきた漢字の物語は、私たちのこころの深層に聖なるものとして刻まれています。神社仏閣のお札などはその典型だと言えます。
 仮に文字がなくても線と余白、さらには三次元的な空間性を創出できたとしたら、その隠れたメタファーを現代に蘇生するための入口となり、遥かなるイメージや無限想像への起爆剤となり得る大いなる可能性を秘めています。
 余白や空間は何もないところにすべてがある、「色即是空空即是色」を意味します。
 そのような日本人のドメスティックな美意識や感性、哲学に裏打ちされた表現は、現代においては逆にインターナショナルな意味を持つであろうと考えます。
 墨と線による抽象や書表現が戦後に勃興はしたものの、日本人が大好きなスタイルとして停滞、様式化、形骸化してしまったことも事実です。近現代の芸術の本筋は、弥生時代からの村組織のような団体戦ではなく、個の生き方から表出する個人戦が基本です。

 新しきことを切り開くには古きことをよくよく知らねばなりません。書の原点に立ち戻る、個に必要なことは、古典の原像を深掘りし、表現の道具材料である筆、墨、紙もよくよく理解することがすべての基本中の基本だと考えます。温故知新です。
 
 書表現の道具材料はすべて自然素材が基本です。それらは不確定要素が多いことから想定内と、不測の想定外とが起きて矛盾合一する変異が起きる、それが書表現の醍醐味となります。まさに一瞬にして、刹那の一期一会を迎えるべき鍛練行が必要となります。
 白い紙に、黒い墨線を筆で引き出す不測の行為は、陰陽世界をかたちづくることにもなります。

 書は現代においては極めてアナログですが、プリミティブでフィジカルでもあり、書の伝統である古典とは化石のような存在ではありますが、実は無尽蔵と言えるほどの線と造形美術の原理が埋もれており、表現のための情報のタイムカプセルです。そして、書が書であるためのもっとも大事な情意と品性の何たるかを内包しています。
 この素晴らしい普遍的な古典遺産を再発見、再発掘する日々を重ねてきた上での今回のコンテンポラリー作品です。
 四角い紙と丸い筆の組み合わせは、相撲の土俵と同じで、中国古代の宇宙哲学である「天円地方説」そのものを具体化しています。
 相撲は神事ですが、書はかつては小宇宙を具現化して、融合の境地を目指すことで至高の芸術になりました。

 筆で線を引くのは三拍子が基本です。音楽のワルツと共通します。「三」は最小素数として、たくさんの水が流れる「川」が三本の線で書かれているように”無限”を意味します。
 一本の線は最初の起筆、途中の送筆、最後の収筆へと連続する三拍子で引かれます。収筆は終筆ではなく、終わりの始めを意味します。奥深いことに、それぞれのポイントにはさらに三拍子の微細な運筆原理があり、三×三の合計九つの筆の働きの呼吸が含まれて成立しています。
 この「九」の原理は、中国哲学においては陰陽の”陽”の最大数として、密教の「金剛界曼荼羅」と同じ構造を示す普遍性があります。

 この一例だけでも、書の古典には深遠な法則性が隠されています。理屈は知らずとも、あるいはわからずとも、それらがしっかり内包されてさえいれば、見る側である人間は、生きものとしてのDNA的なアンテナが共鳴する、つまり琴線に触れてこころが揺さぶられるはずです。生き残ってきたすべてのジャンルの古典とはそういうものを指すのではないかと思います。

 書は誰でも書ける筆文字レベルから、誰もが書けない技術と技術以上の人間の見識と品位の問題があります。
 ザ・書という本物レベルは、瞬時にして線質の自然体による深さと、造形の均整あるいは均衡バランス、紙面の余白から昇華した空間性を引き出して凝縮させる、三位一体のとてつもない鍛練行です。おいそれとなし得るものではないからこそ百尺竿頭、探求努力の甲斐があります。
 また大作になるほど、体さばきも含めて古式の武術との共通点が多くあると考えます。
 古典に立ち戻ることは、剣道と剣術の違いと同じように、今のような書道以前の筆技の書術と、神妙な造形術の深さを識らねば意味がありません。技を通して、まさに一撃必殺ならぬ一筆必中の世界の深さがあることを理解し、体得精進しなければなりません。
 その精神性は、一切を引き算化して、刹那の無に至る禅のこころにも通じるのではないかと思います。

 しかしながら線の美は書に限ったものではありません。書は至高の芸術ではありますが、線を書だけの専売特許だと思うことは驕慢です。
 例えば、焼きもので言えば近世の唐津焼や九谷焼、織部焼の絵付けの線も同じ筆で描かれた脱俗超凡のすばらしい線の世界があります。李氏朝鮮時代の焼きものには、さらに恬淡とした無心の線に加えて、圧倒的な無作為の余白の美を備えています。これらの線そのものは時代を超えて今なおコンテンポラリーだと言えます。
 水墨画における雪舟や長谷川等伯、海北友松らの線の気韻や風韻たるや、普遍的なコンテンポラリーと言わずして何をコンテンポラリーと言うのでしょうか?
 書の世界にも、同様同格の線の行者たちがあまた存在しており、学ぶべき先人がいることは至福の誇りです。

 芸術は、時代と風土と人間がクロスオーバーします。現代は書の本質本義が見失われ、小手先の技術至上に翻弄されて形骸化してしまったことは、さながら仏つくって魂入れずの感があります。それゆえに残念ながら大衆の心から遊離して支持を得られていない現実があります。
 だからと言って支持を得るために、安易にアートを名乗る大衆に媚びた薄っぺらな表現は、品位を落とした軽佻浮薄な俗物のそしりを免れることはできません。

 本来の書は漢字を基盤としますが、漢字そのもの造形と漢字を書の表現にした美の根底には、幾何学が必然にしろ偶然にしろ働いていることは確実です。幾何学は数値と数理に置き換えることができます。これは驚くべき事実として「文字の人体図」の名前で近々にも白日のもとに発表いたします。今で言うデザインですが、粗製乱造の現代の商業デザインとは異なります。
 アートもデザインも便利な用語です。そのような仮面をかぶった表現があたかも現代の先端だとの考えでしょうが、果たしてそうでしょうか?文字を書かないことが、短絡的に新しい書の表現につながるのならこんな楽な仕事はありません。いくら理屈をつけようが、結局は単細胞的発想ですからことさらに理論武装したくなるのかも知れません。理論のないのも困りますが、ジャッジメントは、それを手元に置いてくれるか否かの、良識ある一般大衆に任せるしか手だてはないようです。

 書の本質とは何か、書が書であるためには文字のあるなしに関わらず、ベクトルのある線が生命線であることは不変不朽です。その線が空間性を醸成します。さまざまな線の世界を多角的にとらえ、多様多質な線の表現に特化した現代作品を制作するに至りました。

 コンテンポラリーとは現代性を標榜することですが、普遍的な美の本質や原理は過去から現在までを貫くものだと思います。流行としての表現スタイルや様式化されたパターン、方法論を超えた不易の本質や原理の探求こそが、書の新しい地平を切り拓くと考えています。

 それは、書がアートに近づくことではなく、アートが書に近づくことでもあります。

 欧米スタイルのアートに追随したり、日本書道の戦後スタイルを踏襲する時代はすでに終わりました。模倣ではなく、書にしろ焼きものにしろ、日本人の古典が伝えてきた線の美や造形性に根拠を持たないものはいくらアートだ、デザインだと呼ぼうが、ただの泡沫に過ぎません。
 受け継がれてきた伝統の自覚の元に、書の本質を象徴する一期一会の線は、すでに余白や空間性を標榜するコンテンポラリーそのものであると考えます。

 今回展は、言わば交響曲「線」という楽曲をオーケストラとして、全員のそれぞれが、それぞれの楽器で線を奏でていると解釈していただければ幸いです。
 古代からの経糸と、現代の緯糸で織り成す現代の線の広角作品群をLINE =【書】として発表いたします。
 線も書も目で見る音楽として、ご高覧くだされば幸甚です。(了)